HOME

 

政治経済学II レポート

文学の国籍

〜グローバルな文学を求めて〜

経済学部経営学科3年 富永京子

 

 

1.はじめに

 一口に文学作品といえども、文学の種類は数多い。詩からはじまり、戯曲や小説、随筆や散文と多岐に渡る。しかし今回、この論文ではそういった「カテゴリ」的な話をしたいのではない。さらに多岐にわたると思われるのが、文学を書いた作家の出身国、言うなれば文学の「国籍」だ。

 それぞれの国には風土や民族による固有の性質とでもいうべきものがあるだろう。そしてそれは、むろん文学にも転移されるべき性質であるだろう。だとすれば、文学にも国による固有性なるものがとうぜん存在し、あるいはそれを持たぬ――いや、固有性を超越した、「グローバルな文学」なるものも見出されてしかるべきではないか。

 固有性を持つ文学/持たぬ文学、国際的に認められる文学/認められぬ文学――この研究では、「文学」に4つの象限を設け、そこから文学の国籍、そしてグローバルな文学を見出して行こうと思う。

 

2.文学の国籍

 文学が国籍を持つと言うこと。つまり、その文学作品を生み出した人間の故国に拠る何らかの共通の特徴を見るということを、まず最初にしていきたい。文学作品の国別のカテゴライズを、さまざまな批評や文人の解説等を紐解きながらやっていく。

 

T.ロシア文学

静かな深い憂愁が、ロシア19世紀文学の特質を成していることは、今さら言うまでもなく周知の事実です。しかしその憂愁のあらわれは、それぞれの作家において、本質的にも色合いの上からも、微妙な差異を示しています。デンマークの文芸評論家ゲオルグ・ブランデスは、その点に触れて、次のような簡明ではあるが味わいの深い評語を、のこしています。「ツルゲーネフの悲哀は、その柔らかみと悲劇性のすがたにおいて、本質的にスラブ民族の憂愁であり、スラブ民謡のあの憂愁に、じかにつながっている。・・・ゴーゴリの憂愁は、絶望に根ざしている。ドストエーフスキイが同じ感情を表白するのは、虐げられた人々、とりわけ大いなる罪びとに対する同情の念が、彼の胸にみなぎる時である。トルストイの憂愁は、宗教的な宿命感にもとづいている。そのなかにあって、ツルゲーネフのみが哲人である。・・・彼は人間を愛する。

(ツルゲーネフ「はつ恋」神西清によるあとがき 新潮文庫)

才能のある人間はロシヤでは純潔でいられません。(中略)だけどこんな環境にいて日を日についで働き闘っているひとが、純潔のまま、素面のまま自分を保ってゆくことはほねよ……

 ナロードニキが窒息せしめられた八十年代の政治的な反動期に、ロシヤのインテリゲンツィアが理想を失い、生きがいをなくし、自分自身にも自分の力にも、何かなしうる可能性へのあらゆる信仰をも失って、生活の前に頭を垂れている現実の息ぐるしさをひらいてみせて、強くひとびとの思考をうながしているのである。
(チェーホフ『ヴァーニャ伯父』 下は、湯浅芳子によるあとがき)

 

 ロシア文学を包むものはゲオルグ・ブランデス曰くある種の「憂愁」であり、それは文学だけでなく、ロシアのインテリインテリゲンツィア全体を包むものであったのだろう。憂愁を引き起こす背景として、政治的なものであったという解釈を、湯浅が成している。事実彼女が解説し翻訳した『ヴァーニャ伯父』は、ロシアの閉ざされた田舎の中に住む医者や学者と言ったインテリゲンツィアが、光明と生きがいを求めて苦しみもがくストーリイであり、まさに湯浅とブランデスが言う「ロシア」そのものであったわけである。

 

 さて、日本人もロシア作家には大きな影響を受けたようである。まず、芥川の「芋粥」はゴーゴリの「外套」、「鼻」はゴーゴリの「鼻」に影響を受けたと言う議論が成されており(日本比較文学会第69回全国大会『鏡花文学の怪異のディスクール』より)、小林秀雄と中村光夫、福田恒存の対談「文学と人生」では、三人が「若い頃読むものと言えばロシア文学しかなかった。大体本屋に行ったところで、置いてあるものがそもそもロシア文学しかなかった」と述べているし、小林などは「トルストイやドストエフスキイなどは一世紀にひとりいればいいというほど偉い人だ」とかなりの敬意を表している様子が見て取れる。他にも黒澤明によるドストエフスキーの「白痴」の映画化や1969年から今なお続く「ドストーエフスキイの会」の存在など、上げればきりがない。

 

U.日本文学

 ということから、日本文学を考えてみると、やはりロシア文学の憂愁が何らかのエッセンスとして働いているかとも考えられるが、全体的なルーツとするにはまだ根拠が弱いので、ひとまず著名な作家から見て行こう。世界的にはやはり川端康成の名前が目立つ(ノーベル文学賞受賞、世界傑作文学100選)。また私は、ヨーロッパ7カ国(イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、オーストリア、ハンガリー、イタリア)において、ハンガリーを除く全ての首都の本屋に川端の作品があることを発見した。次いで多く置かれているのが三島由紀夫、吉本ばなな、村上春樹といったところである。村上はアメリカや東欧でも高い評価を得ており、『ニューヨーク・タイムズ』誌のThe Ten Best Books of 2005 や、フランツ・カフカ賞を受賞している(また、村上もまたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を目標としているようである)。また、三島はその生涯が『Mishima: A Life In Four Chapters』としてアメリカで映画化されるほどの人気を博している。

 この4者に共通する点、と言うと非常に難しいが、ストーリー性というよりかは表現の美しさ、緻密さ等に着目される。綿谷りさ「蹴りたい背中」が芥川賞を受賞したとき、石原慎太郎氏が講評のコメントで「日本の文学は川端康成山の音に代表される、文で表現できぬものを精密に表現するところにある」というようなことを述べていた。また、川端康成のノーベル賞推薦時の文賞の中で三島は「人間の本源的な孤独と、愛の閃きのうちに一瞬垣間見られる不滅の美とのコントラストという主題恰も稲妻の一閃が、夜の樹木の花瞬時に照らし出すような」表現という点で、川端を推薦すべきだと述べている。また、古典文学研究の第一人者・竹西寛子からは「『雪国』の作者は、直感の自在に遊ぶ人ではあっても、ゆめ思考思索にこもる人ではない。」とも称されており、またそうした技能を「日本人の最も鋭くふみ分けることのできる文学の道の一つ」と述べたのは、伊藤整である。

 とすればやはり、川端の文学というものは、日本人が他国の人々に比べもっとも優れ、誇るべき感性を代表するものであり、またそうした面から海外においても称賛されるべきものだったのであろう。新潮社によれば、日本人が最も好きな文学は、現代においてなお夏目漱石の「こころ」だそうであるが、これは日本人が共感を寄せるだけであり、漱石文学の特徴――われわれ日本人が最も心を寄せるものの、外国の書店には並べられぬ叙情と青年の葛藤――は、ここにおいて「国籍」とは呼称できぬものであろう。

 

V.アメリカ文学

 アメリカとはいえ、起源はイギリスの植民地なのだから、イギリス文学とかなりのところ趣を同じくしているのではないか。英米文学という呼称もあるのだし―――と思われるかもしれないが、全くそんなことはない。しかしいつでも面白いのは、彼らが当時評価していた作品は、いずれもある程度の異端性を持っていたということだ。

 

 この作品が発表当時あちこちで禁書扱いされた原因は、内容が宗教や道徳に反していて教育上よろしくないというだけでなくて、言葉の下品さということが大いにあずかっていたにちがいない。

(岩波文庫 マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』西田実による解説)

 

 「おそらく『ライ麦畑』が評判になり、熱狂的な人気とともに批判や糾弾の声もかまびすしく、心理学の教材に使用する教師が現れたりする一方では禁書目録に載せて生徒たちの閲読を禁じる学校や地方が続出した」

(新潮文庫 サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』 野崎孝による解説)

 

 こうした表記はアメリカ文学の解説を開けば、大体のものについてくるだろう。あるいは逆にこういった解説もある。

 

 「四人姉妹」は女史が三十五歳のころに少女向きの健全な家庭小説という、出版社の希望に応じて自身の少女時代の生活を主材にして書いたもので、この作中の人気者ジョーは女史自身であることはいうまでもない。

(新潮文庫 『若草物語』オールコット著 松本恵子による解説)

 

 周囲から要望されるか禁書扱いされるか、その二極のふれ幅が非常に大きいことが、敢えていうなればアメリカ文学の一時的な特徴とでも言うべきところであろう。これはアメリカにわたった日本文化、例えばポケット・モンスターやトヨタの自動車などもそうだろう。一時的には先入観から非常に強いバッシングを受ける。しかし、それは一時的な判断に過ぎず、サリンジャーもオールコットも、現在でも思春期の少女たちに同様に親しまれていることは言うまでもない。むろんポケモンやトヨタの自動車もだ。

 ではアメリカ文学は、それに対する社会の過剰反応を超えて、どんな特徴を持っているというのか。私はヘンリー・ジェイムズの存在が鍵になると思っている。彼の作品は特に『デイジー・ミラー』『ある貴婦人の肖像』に見られるとおり、新興国・アメリカの自由闊達な文化と、旧宗主国・イギリスの因習的な文化、あるいは民族性の比較を主として表現した作家である。スタインベックの『怒りの葡萄』においても、問題とされるのは気候変動や農業の機械化、恐慌の不景気に悩まされる個人小作人という、きわめて社会的なテーマである。アジモフもSFというきわめて非現実的な表現方式、体裁をとりながら、書いている中身は人口管理や環境破壊といった社会性のつよいメッセージである。

 アメリカ文学は社会の洗礼を受けてまずその普及が始まる。糾弾されるか、推進されるか、その二択だ。というにも、アメリカ文学にはその社会的メッセージが強すぎるのだ。彼らは体裁こそばらばらであるが、非常に言っている内容は社会に対して厳しいものとなる。だからこそ糾弾され、禁止されるのだ。ではあるが、歴史を越えた今、その異端者らは当時の社会背景を写す鏡として、ニューヨーク・タイムズには見られぬ、彼らの社会に対する怒りやあるいは愛情、そうした庶民の感情もまたひとつの資料、当時の社会のぬくもりある破片なのであろう。

 

W.イギリス文学

 シェイクスピア・バイロンからデフォー、あるいはモーパッサン、アガサ・クリスティにD.H.ロレンス。彼らを一口に「イギリス人」と呼んでその特徴をひとつにまとめることは、とても難しいだろう。

 しかし、私は彼らのとんでもない多様性の中に、ひとつの愛国心を見るのだ――もしイギリスの作家らが書いた短編集を見る機会があれば、その中に出てくる「イギリス」あるいは「ロンドン」という単語の多さに着目してほしい。そして日本の短編集に出てくる、「日本」あるいは「東京」という単語と比較してほしい。

 

  文学は、イギリス人によって、ロンドン以外のいかなる場所でも営まれえないのです。したがってわれわれの道はフレギソン=フリート・ディチ(テムズ川)を通らねばならないのです。

(岩波文庫 ゲーテ・カーライル往復書簡 山崎八郎訳)

 

 ゲーテの死後、カーライルからエッケルマンに送られた書簡である。1834年であるが、彼らイギリス作家の愛国心と首都に対する自尊心というものを強くうかがわせる文章である。ヴァージニア・ウルフが『キュー・ガーデンズ』という作品を描き、サッカレーが『虚栄の市』で痛烈に皮肉った。漱石にいたっても『倫敦塔』という作品を――それは違うにしても、先ほども申し上げたとおり、短編をいくつか手繰っていけば、読者はイギリスとロンドンの風土や民族性を、思うさま味わうことができるだろう。また、「この事実(肉体こそがわれわれの存在の楚をなす事実)は、西欧では見失われがちだった。あるいはねんごろ、それは極力、否認され、その結果、ついに忘れ去られたといった方が性格であるかもしれない」とは新潮文庫、D.H.ロレンス『息子と恋人』の解説であるが、これにより逆にロレンスほかの作家があまりに街や社会というものを見過ぎ、肉体や個人の存在を看過していたことの裏づけとなろう。チェコの作家、カレル・チャペックがその旅行記にて「個人の存在がこれほど見えぬ街は珍しい」と述べたとおり、イギリスやロンドンにおいて、表現されるのは個人でなくその地、有名なピカデリー・サーカスやリージェント・ストリート、テムズ川やシティである。デフォーやディケンズが書いたのも、実はロビンソンなどのヒーロー個人ではなく、当時の中産層全体のありようこそがヒーローであると賞賛したのだ。そうした全体の描写は、イギリス人の帰属意識と愛国心、誇りの証明といえるのではないか。

 

X.フランス文学

 他の国においても同様のことが言えるのだろうが、フランスの文学の起源において特に言われることは、詩的な要素が非常に強いことである。確かに、マラルメやボードレール、ヴァレリーなど有名な詩人の名前には事欠かない。『フランス短編傑作選』(岩波文庫)の解説においては、詩の立場が非常に強く、また小説、殊の外短編の立場というのは非常に弱く、近年になってようやくその価値が認められてきたことが述べられている。

 事実、これまでの文学に見られた愛国心や社会性といった言葉を使ってフランス文学をあらわそうとしても、ピンとこない事のほうが多いかもしれない。「フランス気質は、かつてのルター気質のように、豊かな教養を追い払う。」とはヘーゲルのフランス批判である。 豊かな教養を追い払うとはなにぶん言い過ぎであるが、確かに教養や理知というものとも少し違うだろう。「作家としてのルナールを、19世紀末のフランス文壇で特異な存在としたのは、なにより、彼の無比ともいうべき観察の目と、的確緻密な表現のニュアンスである。」(岩波文庫 ルナール『にんじん』岸田国士による解説)観察眼、的確、緻密というのも、フランス文学には相応しくない、だからこそ異端とされたのだろう。では、フランス文学の特徴とは何なのだろうか。

モーパッサンとフローベールの『女の一生』と『ボヴァリー夫人』を評した解説にこんなものがある。「いずれにせよ、この『女の一生』は『ボヴァリー夫人』と並んで、フランスの現実主義文学が生んだ傑作の双璧であり、人間の宿命的な悲しい生の営みについて、われわれに考えさせる多くのものを持っているということができよう。」(新潮文庫モーパッサン『女の一生』新庄嘉章訳)

 生ということ、存在と言うこと、人間と言うもの。こうした主題、そしてそれにまつわる深い悩みや苦しみ、そういうものを描かせたらフランス文学の右に出るものはいないだろう。サルトルの実存主義、ロマン・ロランが徹底して書いた、人間の信じがたいほどの苦痛と突き抜けるほどの歓喜。ヴァレリーは終始自意識に苦しみ、プルーストは人類史上まれとも言えるほどの長編で、彼の哲学を展開した。

 彼らは他の民族に比べて驚くほど人間である。それは社会を通してでもなく、国を通してでもなく、どこにも帰属せず、ただ、彼ら自身の手で彼らそのものを描く。

 

3.グローバルな文学とは

 これまで日本と、特に重要と思われる「文学の国籍」4つを取り上げた。ここでするのはどこの国がどうだというのではなく、どの国にもそれなりにきちんとした「国籍」が見出されると言うことだ。これはここで取り上げなかったイタリアにしても、ドイツにしても、アイルランドにしても、何らかの国籍が見出されると言うことを証明している。

 さて、そろそろ話を国籍でなく「グローバルな文学」の話に移そうと思う。国民性という要素、つまり国籍は、グローバルで在るためには不要な要素である。グローバルということは、国に拠らず民族に拠らず、世界、万人に受け入れられるものだと思われる。であれば、国籍と言う要素は排除されるべきだろう。

 万人に受け入れられると言うことはどういうことなのか。何らかの賞を受けているということか、著名な作家が選んだ作品と言うことか。当初、私はそう考えていたが、そういうことではないのではないか。だとすればノーベル文学賞や、世界の傑作100選とかそういうところから探していけばいいのだろうが、それが果たして「万人の」ものであるかといえば、絶対にそういうことではないだろう。

 国籍のない文学とはいったい何なのだろうか。グローバルな文学とは――まず、誰からも受け入れられている、ということを、どう指し示して良いのか、私は迷ってしまった。ここでひとつの解説を見つけた。先ほども提示した、オールコット『若草物語』についての解説である。

 

「四人姉妹」は女史が三十五歳のころに少女向きの健全な家庭小説という、出版社の希望に応じて自身の少女時代の生活を主材にして書いたもので、この作中の人気者ジョーは女子自信であることはいうまでもない。

 それから百年たった今日もなお、米国では毎年新しい優れた作品が次々に現れて、読書会を風靡しているにもかかわらず、本書は依然として広く読まれ、最近三ヵ年の全米読書調査の結果においても五、六位にあり、しかも新刊を除けば一、二位を占めていて、すでに世界各国語に訳されて少女たちの人気を博している。

(新潮文庫 『若草物語』オールコット著 松本恵子)

 

 日本の項でも新潮文庫による調査で「こころ」が一位であったと述べたが、どうやら同様のものは米国にもあるらしい。しかし、世界のもの、となると、あまりにデータが膨大すぎて、結果として一部の権威や著名な作家にその判断を委ねるしかなくなるのだろう。ここでひとつ思い浮かんだのが、「世界何十カ国で何百億冊売れている」といったフレーズだ。なるほど売り上げなら、データ化するより他はないし、著名人も子供も一冊として数えられる。買うと読む、愛されるということは決して同義ではないだろうが、愛されるからこそ広く読まれる、広く買われるのだろう。次に提示するのは、世界的ベストセラーのランキングである。(Wikipedia、売り上げ順)

 

J.K.ローリング 「ハリー・ポッターと賢者の石」1997、英

アガサ・クリスティ 「そして誰もいなくなった」1939、英

ダン・ブラウン   「ダ・ヴィンチ・コード」2003、米

J.D.サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」1951、米

パウロ・コエーリョ 「アルケミスト」1988、ブラジル

リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」1972、英

サン・テグジュペリ 「星の王子さま」1943、仏

ジョンストン・マッカレー「怪傑ゾロ」1920、米

ヨハンナ・シュピリ「ハイジの修行時代と遍歴時代」1880、スイス

ルー・ウォーレス「ベン・ハー キリストの物語」1880、米

E・B・ウォレスト「シャーロットのおくりもの」1952、米

ビアトリクス・ポター「ピーターラビットのおはなし」1902、英

リチャード・バック「かもめのジョナサン」1970、米

ガルシア・マルケス「百年の孤独」1967、コロンビア

ハル・リンゼイ「地球最後の日」1970、米

ジャクリーン・スーザン「人形の谷」1966、米

ハーパー・リー「ものまね鳥を殺すには」1960、米

マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ」1936、米

 ノーベル文学賞や世界傑作文学などと違って、冒険小説・児童文学が半分以上を占めているのが印象的である。また、純文学的というよりは、大衆文学的な作品が多いのも特徴だ。米国の作品が多いが、これは「米国の作品が世界で認められている」というよりかは、「米国の作品が米国でベストセラーになっている」事もあるため、決してこれが「認められている」唯一の指標ではないことを注意されたい。とはいえ、児童文学や大衆文学、推理小説が最もグローバルな文学、というのは、確かにそうかもしれないと思わせられる説得力がある。確かに国籍という要素に欠けるが、その分誰にでも、世界の誰にでも分かりやすいという特徴が在る。さらに考えてみると、分かりやすさという点なら、推理小説などよりは児童文学のほうが上であろう。

 

 ここでハリー・ポッターがグローバルな文学、と言い切ってしまうのは簡単であるが、グローバルと言う限り、世界のありとあらゆる国籍の、そしてあらゆる年代の人に読まれ、感動されるものでなくてはならない。あまり好きな言い回しではないし、ハリー・ポッターがそうでないとは言わないが、「大人の鑑賞に堪えうる」ということだろう。

 この中で大人をもうならせ、子供にもまた愛される文学を上から探していくと――『星の王子さま』がまさにそうではないか。星の王子さまに現れている哲学的要素は、確かに大人をも感嘆させるものであるし、かといって子供に読まれないかといえば決してそうではない。星の王子さまより若干普及度は落ちるが、『かもめのジョナサン』もそういった類だろう。

 

4.結論

 グローバルな文学とはいったい何なのか。世界中のみんな、それこそおじいさんも、子供も、ビジネスマンも白人も日本人も含めたみんなに愛され、読まれるものであると言うことだ。その結果、私は児童文学にこそその要素があり、特に大人にも愛される児童文学というのは非常にグローバルたり得るものではないかと考えた。

 むろん、『星の王子さま』や『かもめのジョナサン』に偏向や国籍がまったくないかといえば、そうではない。一見子供向けの内容に見える中で、非常に強いメッセージが隠されているという議論もなされている。

 だが、それは人によっての楽しみ方の問題である。アメリカ文学に関する議論でも同じようなことを述べたが、そうした議論が生まれると言うことも、これらの文学が非常に多くの要素を含む、それこそ単純な児童文学でなく、「大人の鑑賞に堪えうる」ということであり、グローバルな文学を形成するを担っている一因であるといえるのではないか。